このページは、メール講座「『私はいない』が腑に落ちない7つの理由」を読んで感じたことや、気づいたことを書く場所です。
「なるほど」と思ったこと。
「ここがよく分からなかった」ということ。
「もっと知りたい」と思ったこと。
どんなことでも大丈夫です。
ひと言でも構いませんので、ぜひコメントしてください。
すべて読ませていただきます。
にしき
メール講座専用 気づきの部屋にしき2026-08-01T02:24:22+09:00
錦さん、いつも全てに丁寧に、そして真摯にコメントを返してくださってありがとうございます。そうなんですよね、「個」がずっとループしているんですよね。今でも、「それでもどうにか、この自我のまま」分かりたいというエネルギー?動き?みたいのがあります笑 本当に一時的ですが、あ、いない。というのが起こって、何にも無くなるんです。てか、無かったんです。でもすぐに、刷り込まれた何かが、ステルス的にやっぱりずっとあるんですよねー笑笑 …でも、あってもいいのかな?この個の感覚というのは、またあれを掴みたいとか、またあそこに戻れればとか?ごちゃごちゃやってて、あーまたやってる!この動きがしんどいのに!これやめなきゃ!いや、こうやってまた〜しなきゃとか自責が始まってる!これこそやめなきゃ!…そして4行目に戻る。なんか、笑けてきました!!こういうときに限って、セッションを受けるお金が無いとか、たくさん借金があるからまだその時期ではないとか、観念が強く先立って絡め取られています。
私がいるとか、いないとか、よく言われますが、
そもそも色んな感覚や思考が起こっていますよね?
私の場合、その感覚や思考を分かっている、感知しているのが「私」という感じです。
なのでその「私」がいないと言われてもピンと来ません。
「ただ感覚や思考が起こっているだけ」とよく言われますが、それがそうと分かるには
感知されなければなりませんよね?
そしてそれらを感知できるのは、この個体に起こってくることだけですよね?
他の個体に起こる感覚や思考は分からないですよね?
例えば自転車で転んでケガをしたとします。自転車で転ぶということが起こった、
ケガという現象が起きた、痛いという感覚が起きた、「なんでもっと気をつけなかったんだろう」
という思考が湧いた。
でもそれらを分かっているのは「私」だけですよね?
他の個体には分かりませんよね?
いつもここでひっかかってしまうんです(・_・。)
たかこさん 今、お書きになったことに、まさにひっかかる理由が明らかです。
「そしてそれらを感知できるのは、この個体に起こってくることだけですよね?」
ここでは「個体」とお書きです。これは「身体」のことを言っているんじゃないかと思います。感知する機能を備えた身体。ここまでは同意です。
ところが、その個体がいつの間にか、
「でもそれらを分かっているのは「私」だけですよね?」
となっています。ここに飛躍があるのがわかりますか?
「感知する機能を備えた身体」が、いつの間にかそれを超えた「私」になってしまっている。
ここです。
感知する機能はあります。
でもそれは私という特別なものじゃないんです。ただの身体の機能です。私はいなくても感知は起こるんです。
でもこれまでそういう「感知するのは、私という主体だ」という刷り込みがたくさん行われました。
なので身体が私に変換されてしまっているのです。
「感知する機能を備えた身体」は身体なんです。
じゃあ私ってどこにいる?
「私が感知している」という前提をいったん脇に置いて、よく見てください。
にしきさん、返信いただきありがとうございます。
昨晩、ちょうど2話「身体が私」を読み終えたところです。
うまく言えませんが、身体=私という感じではないんです。
その「感知する機能を備えた身体」を感知しているのが「私」という感じで、
でも呼び方は「私」じゃなくてもいいんです。
その感知しているものを「意識」と呼ぼうが、「全体」と呼ぼうが何でもいいのですが、
「意識」が、或いは「全体」が、この身体に、或いはそれぞれの身体に起こる感覚、思考、感情を
感知しているのですか?
感知した時点ですでにそれらには「私」という感覚がくっついているので、その現れている「私」を
意識が感知しているのですか?
でも「私」は現れている側なので、「私」側からすると、「私」の外のことは分からないという感じです。
身体が私
身体感覚が私
感情が私
身体感覚が私
というよりも、それらを感じるしかないので、身体感覚=私であろうと、身体感覚と私は
別であろうと、あまり変わらないような感じがします。
すみません、自分でも書いていてよく分からなくなりました( *_* )
にしきさんがおっしゃっている「私がいなくても感知は起こる」というのは、
「何かが何かを感知する」というそういう二層構造ではないという
ことだとは思うのですが・・・
たかこさん とっかかりが見えましたね。
「何かが何かを感知する」というそういう二層構造ではない
これ正解です。(ただし、感知が必要かどうかは別途検討しなければなりません)
今の状況は、このメール講座の第一回に書いたように、たかこさんが「私がいる」前提で「私がいない」を理解しようとするから無理になるのです。
また概念と物語がいっぱいあって、それも理解を妨げています。
仮に感知ということがあるとするなら、「感知する主体が必要」というのも頑固な思い込みです。だから、「私」の代わりに「意識」だとか「全体」だとかの感知する者が出てきてしまいます。それは「私」の言い換えだと思いませんか? だから、意識や全体が何かを感知するわけではありません。
文字のやり取りでわかろうとするのは限界がありますね。
対話形式ならすぐ間違いを指摘できるので、可能だと思います。
Zoomで「私はいない」についての個人授業は興味ありますか?
にしきさん、ありがとうございます。
実は私もずっとそう思ってきました。「意識」とか「全体」とかってよく言われますが、
「私」の呼び名がただ変わっただけでは?という感じがしていました。
昨晩は 第3話「言葉が「私」をつくっている を読みましたが、
「見る」「聞く」など何でもいいですが、言葉自体に「~が~する」という二層構造がすでに
含まれていますよね。
こんにちは。第4回の、私と出来事についての質問です。過去の経験が、急にフラッシュバックするときがあります。いま目の前で起こっていることではない事でも、唐突に苦しくなる感覚が起こります。個のわたしにとっては辛かったこと。このような場合でも、同じように、例えば「あ、雨だ」みたいな感覚と、実は変わらない、ということでしょうか?
本当はいない「自分」が、その「自分」を守ろうとする、単なる反応なんでしょうか?
アユさん そのときの映像や記憶がフラッシュバックするってあると思うんです。そのときも辛かったし、思い出せば今も辛いでしょう。でもそれを「私が苦しんでいる」という方向に向けてしまうと、誰が悪いんだ、何が原因なんだと、もっと辛くなりますね。これが私の働きですよね。物語を作って、過去をさらに辛くしているんです。過去の出来事だから関係ないと言っているのではありませんが、過去の出来事を理由なく思い出している今、実際何が起こっているのかを淡々と見るのがいいと思うんです。ただしこれは個人セッションで対処するような話ですので、一般論は言わないほうがいいんでしょうね。
メール講座第2回目での身体感覚のお話、読んでいて、確かにそうだなぁという思いが湧いてきて、と同時に、なぜか時が止まったような不思議な感覚がしました。上手く説明できませんがとにかく全部がピタっと止まってしまう、そう見えるというか…。
アユさん、コメントありがとうございます。
身体感覚の話を読んだだけで、
「時が止まったような感覚」
「全部がピタッと止まってしまう」
そんなことが起こったんですね。
もしかすると、「身体が私」という前提が、少し揺らいだのかもしれません。
そして、「私」が少し静かになって、そんな感覚として現れたのかもしれませんね。
また何か気づきがありましたら、ぜひ教えてください。
何時もありがとうございます。私はスクリーンだ私は空の方だこの世界は勝手に自分が動かさなくても進んでいくと思うようにして自分を俯瞰して観るようにしているつもりですがやはり痛みがあったり人から良くない事を言われたりするといつの間にか自分の世界に又入り込んでる私が出てきてしまいます。
坂槇優子さん、コメントありがとうございます。
痛みがあったり、人から嫌なことを言われると、
いつの間にか「私」が出てきてしまう。
とても正直だと思います。
スクリーンや空を知るだけでは、「私」は出てきます。
でも、僕は、「私が出てきてはいけない」とは思っていません。
むしろ、どんなときに「私」が現れるのか。
その「事実」を見ることがとても大切だと思っています。
知るだけじゃなくて、頑張らないでやることが楽になる早道なんです。
それをやるために作ったのが、「頑張らずに楽になる実践プログラム」でした。
「知る」だけではなく、日常の出来事の中で実際に見ていく。
そこに、大きな違いがあるように思っています。
色んなスピーカーさんを渡り歩いてるだけで、腑に落ちるということが今まで1度もありません。本気ではなく、非二元に逃げているだけだからかなぁと思ってます。
第2回は身体についてとの事ですが、私は頭がないというのをずっと理解したいと思っているのですが、指差し実験を何度してみても腹落ちすることはありません。
貴殿のお言葉でこの点聞けたらなぁなどと思ったりします。
まだまだ暑い季節が続きますので、ご自愛ください。
石橋さん 丁寧なコメント、ありがとうございます。
ハーディングの「頭がない」って話ですね。その指さし実験。
これ、信じられないぐらい素朴な話なんですよ。
目の構造とか脳とか、そういう科学的な知識はいったん忘れてください。
すると、見えている部屋は1枚の映像のようなものです。
そして、自分の頭だと思えるところを指さしても、
確かに目に見える映像(部屋)に頭はありません。
目に見えている映像だけに注目するんです。
頭の重さとか、首の感覚とはそういうものは無視してください。
すると、映像のなかに自分の頭はない。頭という肉体の感覚は無視です。映像だけを見ます。
そしてそのとき、頭はないけれど、映像をまるごと受け止めるスクリーンのような「大いなる私」がいる、というのがハーディングの言っていることだと思います。
彼がその感覚を持ったのが、ヒマラヤかなんかの山を見たとき、雄大な光景にわたしがいなかったそうんです。そう言われるとちょっと分かる気もします。
でも、僕の「私はいない」とはだいぶ立場が違います。
「私はいない」、腑に落としたいものですね。